【ガラパゴスアメリカグンカンドリ】 ガラパゴス自然保護基金/Galapagos Conservation Fund Japan
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ガラパゴストピックス

                              - 2009,01,01 -


 
’09 正月特集:ダーウィン生誕200年 ダーウィンの足跡を訪ねて


 ◆裕福な育ち医学を断念牧師を目指す


チャールズ・ダーウィンは1809年、英国のシュルーズベリーで6人きょうだいの5番目として生まれた。父のロバートは医師、母スザンナは陶磁器会社ウェッジウッドの創設者の娘。父方の祖父、エラズマスは国王の侍医候補で発明家、詩人という才人だ。英国で指折りの裕福な家庭だった。

 昆虫採集や化学実験には熱心だが、学校の授業は大嫌いという少年は16歳でエディンバラ大に入学。医学を学ぶが勉強そっちのけで、結局医師の道を断念し、牧師になるためケンブリッジ大に入る。田舎で牧師をしつつ、自然観察をする生活に魅力を感じていた。

 転機は突然だった。31年8月、恩師で植物学者、聖職者のヘンズロー教授からビーグル号での旅に誘われた。立場は艦長の「話し相手」。同年12月27日にプリマス港を出港し、5年をかけて世界を一周した。帰国後の39年、30歳でいとこのエマ・ウェッジウッドと結婚、同年「ビーグル号航海記」を出版した。


シュルーズベリーにあるダーウィンの生家=元村有希子撮影
シュルーズベリーにあるダーウィンの生家=元村有希子撮

ガラパゴス諸島サンタクルス島のプエルトアヨラの町中に描かれたダーウィンの壁画=平田明浩撮影
ガラパゴス諸島サンタクルス島のプエルトアヨラの町中に描かれたダーウィンの壁画=平田明浩撮影

初めて上陸した湾に建つダーウィン像=ガラパゴス諸島サンクリストバル島で
初めて上陸した湾に建つダーウィン像=ガラパゴス諸島サンクリストバル島で

マングローブが生い茂る海辺を悠然と歩くウミイグアナ=ガラパゴス諸島サンタクルス島で
マングローブが生い茂る海辺を悠然と歩くウミイグアナ=ガラパゴス諸島サンタクルス島で

国立公園局に漁獲量の報告をするため、水揚げしたイセエビを計量する漁師=ガラパゴス諸島サンタクルス島で
国立公園局に漁獲量の報告をするため、水揚げしたイセエビを計量する漁師=ガラパゴス諸島サンタクルス島で

 19世紀の英国は変革の時代を迎えていた。とはいえ、多くの人は「すべての生物が神に創造され、人間はその頂点に位置する特別な存在」と信じていた。世界を見聞したダーウィンは42年、「環境に適した特徴を持つ生物がたくさんの子孫を残す。この仕組みですべての生物は共通の祖先から進化したのではないか」と考え、原稿に「自然選択」と記した。だが、同時にそれは人間を特別視しないため、当時の社会では危険思想だと認識していた。42年はロンドン郊外のダウンに新居を構えた年で、穏やかな研究生活を考えていた。後に、ダーウィンの学説を知った地質学者のチャールズ・ライエルはダーウィンに発表を勧めるが、ダーウィンは科学的な証拠集めと検証にこだわり拒否してきた。

 だが58年6月、アルフレッド・ラッセル・ウォレスから届いた手紙が生活を一変させた。14歳年下のウォレスはダーウィンと対照的に貧しい家庭に生まれた。14歳で働きに出て、職を転々としつつ独学で研究者になった。インドネシアなどでフィールド調査を続けた彼にとって、ダーウィンは標本販売の顧客であり、尊敬する研究者だった。

 手紙は「変種がもとの型から無限に遠ざかる傾向について」と題した論文の出版を求める内容で、論文はダーウィンが長年温めてきた「自然選択による進化」の要約のようだった。

 ライエルらの配慮で「自然選択による進化」は58年7月、ダーウィンとウォレスの同時発表という形で世に出た。自分の成果の発表を願っていたウォレスはダーウィンに感謝し、翌年11月にダーウィンが「種の起源」を出版すると、「素晴らしい著書だ」と尊敬の念を込め喜んだ。

 ダーウィンは10人の子どもに恵まれ、ウォレスとの友情は死ぬまで続く。ウォレスは1890年、進化生物学で最高の賞「ダーウィン・メダル」の最初の受賞者となった。 【斎藤広子】


 4島に上陸滞在は約1カ月

 「ビーグル号航海記」によるとダーウィンは1835年9月15日にガラパゴス諸島海域に到着、17日にサンクリストバル島に上陸した。同島は現在、ガラパゴス州の総督府があり、人口約6000人。中心街のプエルトバケリソモレノは静かな港町で、上陸地はそこから東へ40分ほど歩いたティヘレータスという小さな湾だ。周辺には国立公園のトレッキングコースが整備され、湾内でシュノーケリングを楽しめる。湾を望むがけの上にダーウィン像が建つ。

 ダーウィンはその後、フロレアナ島、イサベラ島、サンティアゴ島に上陸、動植物の観察や採集を行った。最初の上陸から約1カ月後、ビーグル号でタヒチに向かった。

 ビーグル号は1820年、2本マストの軍艦として進水し、後に3本マストの測量船に改造された。世界地図作製と航路開拓のため、海と陸を測量することが任務で、最新の風速計や深度計を搭載した。全長は27.5メートル。ダーウィンはマストが突き抜ける3メートル×3.3メートルの部屋で、ハンモックで寝ていたという。 【文・奥野敦史、写真・平田明浩】

(C) 毎日新聞

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